坂上

原点

今でも忘れない昭和56年(1981年)1月30日の夜。

この日、大学の後期試験の最終科目が終わった私は、新潟駅行きの夜行列車「急行佐渡」に乗車するため、薄暗く底冷えのする上野駅のホームにいた。

テレビ業界でドキュメンタリー番組制作の仕事を目指していたが、当時日本テレビに勤めていた大学の先輩の薦めにより、この年の春に新潟県の民放第3局として開局する新しいローカルテレビ局(TNNテレビ新潟)に就職することが決まっていた。東京に未練がなかったと言えば嘘になるが、「新しいテレビ局だから好きな仕事が出来るぞ」と誘われ、これが入社の決め手となった。

4月1日に始まる本放送まで僅か2か月。既に多くの社員が準備に大わらわのなか、私は本社営業部に配属され、学生の身分でありながら2月1日からの出社を命ぜられていた。このため、大学の試験が終わると同時に新潟に向かわなければならなかったのである。

実家を離れて知らない土地での初めての一人暮らしということもあり、少しばかりの不安と寂しさを覚えていたが、酒が入った高揚感がそれらを紛らわせてくれていた。学生時代の登山仲間たちに見送られ、上越線の夜行列車は上野駅を出発した。

大宮、高崎、水上等に停車しながら夜汽車は北に向かう。徐々に乗客も少なくなってきた。列車はいよいよ清水トンネルに入る。川端康成の小説「雪国」に描かれている、あの国境の長いトンネルだ。

自由席の4人掛けのボックス席には私一人。暖房が利いたシートの温もりを感じながら、結露でびしょびしょに濡れた窓を見る。手のひらで拭くと一瞬の冷たさを感じると同時に、水滴が窓ガラスを滑り落ちる。現れた暗闇の中に時折、蛍光灯の灯りと思われる白い光がものすごいスピードで後ろに流れて行く。途中、トンネルの中の駅、土合で停車する。ここから長い階段を上り、谷川岳に登山したことを思い出す。この駅を越えると間もなく新潟県に入る。

既に1月31日となった深夜、夜汽車に揺られながら様々な思いが交錯する。「俺の人生はこれからいったいどうなるのだろう」。感傷的な気分でそんなことを考えていると、突如騒音が収まり、トンネルを漸く抜けたと気づく。窓の外は車内の照明に反射した白い雪の壁しか見えない。

この年は、後に「五六(ごーろく)豪雪」と名付けられた大雪の年で、上越線は度々運休していた。私自身もその影響で、新潟市内のオークラホテル新潟で行われた記念すべき最初の入社式に出席できていない。越後湯沢の駅が近づきスピードが落ちた。窓から外を見ると、列車の天井を遥かに超える高さの雪の壁だ。優に5メートルは積もっているだろう。「まさに豪雪だな…」と思いながら、こんな深さの雪が越後平野一面に積もっているとすっかり思い込む。

学生時代に好んで冬山に登り、スキーに明け暮れていた自分にとって雪は決して珍しいものではなかったが、さすがに自然の凄まじさに驚いていた。後に、列車の屋根を超える高さの雪が新潟県全体を覆い尽くすというようなことがある筈もなく、ラッセル車や除雪車が吹き飛ばしたであろう雪が、レールの両側に回廊のように積もっていただけと知ることになるが、その時は理解できなかった。テレビの全国ニュースで連日大雪の映像を見させられていたこともあり、新潟県はどこもかしこもそんな状況だろうと、誰もが同じイメージを持ってしまうのである。

しかし、越後湯沢を出発した列車が小出、小千谷、長岡と進むにつれ、窓から見える雪の壁がどんどん低くなり、沿線の街の灯りが少しずつ見え始める。真っ白な雪しか見えなかった車窓からも徐々に家や道路が分かるようになってきた。夜が白み始めると睡魔が襲ってきた。適度な揺れと、シート下の暖房から感じる心地よい温もりのなか、ウトウトと寝入ってしまう。突如、車内放送の音楽と声に目が覚める。間もなく新潟とのアナウンスだ。

上野駅を出発してから5時間余り。白々と夜が明けるなか、終点の新潟駅に降り立った。早朝の肌寒い、ひんやりとした空気が身を包む。万代口を出ると、ロータリーの向こうに新潟駅前の大きなビル街が目に入ってくる。

雪が全くないではないか。同じ県内でありながら、どこもかしこも真っ白だった豪雪の越後湯沢とのあまりの違い。「あの雪は現実だったのだろうか。夢ではなかったのか。ここは本当に同じ新潟県なのか…」。呆然と立ち尽くす。

ふと我に返る。

さあ、これから我が家となる部屋に行って準備をしなければ。明日からは本町九番町にある仮事務所に出勤する。いよいよ始まる社会人生活の第一歩を前に、私の胸の中は得も言われぬ不安と期待が入り混じっていた―。