坂上

関越自動車道、開通!

開局してから4年後の1985年の10月5日、上越新幹線に引き続くように、関越自動車道が開通した。これで新潟県は新幹線と高速道路という二つの大動脈によって、首都圏と直結する高速交通網が完成した。太平洋側と日本海側を結ぶ重要なインフラが整備された瞬間だ。

新潟県産のコシヒカリを始めとする農産物や海産物、燕三条の工業製品など新潟発の様々な製品が、この道を使って首都圏を始め全国に運ばれるようになった。時はバブル直前、大勢の観光客やスキー客が高速道路を使って来県するようになった。県内の観光産業にとっても千載一遇のビジネスチャンスが到来した。

バブル絶頂期の80年代後半、練馬インターから越後湯沢インターまで渋滞で車が繋がるということも発生した。若者グループがスキーを目的に前日夜に仲間と車で東京を出たのに、朝になっても新潟県内に到着しないという異常事態だ。「私をスキーに連れてって」という、ユーミンの楽曲がふんだんに使われた映画がヒットした影響もあり、新潟にスキー客が殺到したのだ。スキー場のリフトも大混雑で1時間待ちは当たり前。ゲレンデは人でごった返して危険な状況になることもあった。

報道や制作現場の取材クルーにとっても高速道の開通は大変なメリットとなった。取材時の往復で高速を利用でき、大幅な時間短縮が可能となった。新潟市から首都圏まではおよそ300キロだが、新潟県の北側の山形県境から南の富山県との境までがおよそ300キロと、ほぼ同じ距離がある。とにかく広いので、高速道は生活に必要な基本インフラなのである。

個人的なことで恐縮だが、実家が川越にあることもあり、関越道の開通は大変有難かった。新潟西インターで高速に乗り、実家がある川越インターで降りれば10分ほどで実家に着く。片道約3時間、距離にして約300キロの道のりだ。上越新幹線開業と関越自動車道の開通したタイミングがテレビ新潟に入社してすぐ後ということで、「自分のために作られたんじゃないの?」と思うくらい有難いものとなった。

それまでは国道17号線で狭い三国トンネルを抜けるか、清水峠を越えなければならなかった。苗場スキー場の脇を通り抜けるルートだ。雪が降ると除雪のために不通になることもあった。物資の輸送においては大変厳しいルートであったが、関越道の開通によって一気に大量輸送が可能になった。

当時、博報堂の生活総合研究所が発表した資料で、日本で一番可能性がある都市の第1位が新潟市となった。首都圏と日本海側を結ぶ新幹線、高速道路が開通していて、国際空港、国際港湾もある。環日本海諸国との対岸交流(中国、韓国、北朝鮮、ロシア)の日本海側の拠点でもある。さらに広い土地があり、250万の県民がいて労働力も豊富だというのが理由だったように記憶している。「まさしくその通り」と自分も感じていた。

あれから40年。ストロー現象と呼ばれる人口の流出が起こり、新潟の人口や資本が大都市の東京に吸い寄せられてしまった。当時はこんなことになるとは誰も考えていなかった。便利さが却って故郷を衰退させるということに悩まされるようになってしまったのである。現在、新潟県の人口は急速に減り続け、未来には黄信号が灯っている。少子高齢化は新潟だけの問題ではなく、日本全体の問題だ。岸田総理は異次元の少子化対策を検討しているが、まだまだ不十分と言わざるを得ない。大胆な政策を望む。

首都圏から一番近い日本海側は新潟県である。首都直下地震、南海トラフ地震の発生が危ぶまれる中、新潟県が果たすバックアップの役割は大きい。上越妙高と長岡を繋げる新幹線、新潟から山形、秋田、青森を繋げる新幹線、高速道のインフラ整備など、やるべきことは山積している。

「新潟が日本を救う⁉」がYouTubeで公開されています。是非ご覧願います。

新潟防災50 メイドインにいがた 防災・新型コロナ対策展 (niigata-bousai.jp)